イヴの呪いアダムの罠
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“終わりのイヴ”。
そう命名されていた秘密の計画があったことを、この世界の実に99.98%もの人間が知らないで暮らしている。穏やかに、と言えば聞こえはいいが、あまりに無知蒙昧に。
現代の人類はアフリカに住んでいた一人の女性から始まっている。ミトコンドリア・イヴだ。それを始まりのイヴだとすれば、終わりのイヴは人類を再び一へと帰着させる。人類すべてを統一し進化へ――または破滅へ――と導く力を持つ“終わりのイヴ”。それは国境を越えて世界を統一する”楽園(ユートピア)の母”。そして蛇の誘惑を退けられなかった”失楽の母”。その”母”を創り出そうとした研究者達がいた。
「Eva’s Eden」
楽園に香るのは、えも言われぬ花々の香りではなく鼻を突くホルマリンと消毒用アルコールの不快な匂い。施設すべてを焼き付くした天の火で、黒煙とともに吐き出されたそれらの匂いを思い出し、嫌悪感に吐き気が込み上げる。香りの記憶というのは強烈だ。付随する記憶、感情すべてが望みもしないのに強引に呼び起こされてしまう。
正面に座っている機械屋が、同じように鮮烈な炎の光景を思い出したのか、不快げに鼻を鳴らした。あの現実の世界に顕現した悪夢の中で、彼女の方がより異臭漂う炎の近くまで行った。機械屋は機智に富んだ勇敢かつ、勇猛な女性だ。いつもその身から機械油の匂いをさせている。彼女がいなければ、破壊屋は機械の手足を得る前におそらくあの場で出血死していただろう。そして自分は、立宮へ繋がるわずかばかりの手がかりを失っていただろう。
「それが立宮の出資した施設の名前なの?」
訝しげに、優美な曲線を描く眉を顰めたのは治療屋だ。ある事件の後、眠り続ける恋人にかかる生命維持費用を求めてここへやってきた。優しく、芯のある女性。彼女はウィステリアの淡い香りを愛していて、おそらく眠り続ける恋人もまた、彼女から香るその芳香を愛していたのだろうと思わせる。彼女は機械屋のように、あの焼けた施設についての詳しい事情を――それに絡んだ因縁の多くを――知らない。彼女は害す者ではなくて治す者だから、ある程度醜悪な真実からは遠ざけておいてやりたいと思っていた。
だが、と機械屋と視線が絡む。破壊屋を拾ってから十年以上も経って、事態が動き出した。今まで点でしか認識できなかった物事が、重要な駒が揃うにつれて、急激に線で繋がり始めたのだった。それはまだ曖昧な仮線のようなものだったけれど、祓い屋が倒れたという報告を受けて機械屋と話し合った結果、治療屋には打ち明けることにしたのだ。これから先、巻き込まずにはいられないという確信が持てたから。
「そう。“終わりのイヴ”を創り出す金と施設を提供する代わりに、立宮は研究者達に遺伝子操作と薬物によって自分達の戦士を造ることを条件として突きつけたわけだ。いま立宮のために影で汚い仕事を黙々とやってのけるのはエデンから追放された、いいや、巣立った優等生ばかりだよ」
この場にふさわしいかどうかは分からないが、飲み物もなく話し続けることは難しい。そう思って秘書にはお茶を用意させていた。この香りはアッサムだろう。機械屋は珈琲の方が好きだろうが、治療屋は本来自分で飲む分には紅茶の方を好む。ウィステリアの香りは、紅茶の香りを邪魔しない。珈琲の匂いであれば、あの薄紫の花の密やかな甘い香りを掻き消してしまうことだろう。
「ふん。それで、その“終わりのイヴ”っていうのはどうやって人類すべてを統一するの? 絶世の美貌で誘惑、なんて馬鹿な方法じゃあないでしょうね?」
紅茶を片手に、もう片方の手で髪を耳にかけるその仕草は意識しているものではないのだろうが、そこいらの女性よりもよほど艶かしい。
「詳しいことは分かっていない。ただ、誘惑という言葉はあながち間違いではないかもしれないな」
トップ・ノートは既に薄れ、ベース・ノートが汗の匂いといま嚥下した紅茶の香りと混ざり合った固有の香りは、敏感な鼻をくすぐり、脳を刺激する。その刺激は自分にとって逃せない情報であり、逃げられない誘惑であり、もたらされる支配力でもあった。
「セイレーン」
機械屋が古来の魔物の名前を口にする。船乗りを誘惑し、海に引きずり込んで殺したという美しき魔物。彼女達が船乗りを誘惑した方法とは何だったのだろうか。
「歌声で世界を魅了するって? はん、冗談じゃあないわ。そんな方法、男は引っかかっても女は引っかからないでしょうよ」
魅力的な歌声。そう言われることもある。その声の美しさに魂を奪われるということがあってもおかしくはない。けれどどんなに歌声が素晴らしくとも、姿が異形であれば船乗り達は誘惑されただろうか。おそらくセイレーン達は美しく豊満な女性の体を持っていたのだ。美しい肢体、美しい歌声。視覚と聴覚に訴えるそれらの魅力に、異性ならば簡単に魅き寄せられるだろう。だが治療屋が皮肉に言うように、同性ならばその魅力も半分以下にしか感じられないのかもしれない。
「そう、セイレーンの歌声が全くの魔術でない限りは、それを防ぐ手立てがある。催眠は本来、かかろうという意思がなければかからないものだ」
だが視覚よりも、聴覚よりも原始的な欲望を刺激するものがあるのだ。それが嗅覚。どんなに遠い記憶でも蘇らせてしまうほど、敏感で再現性のある感覚は、未だに電波を通しての共有伝達が難しい。その特別な感覚は時に息苦しいほど人を追いつめ、簡単に燃え上がらせる。
誘惑の魔物。セイレーン達が纏っていたのは海の香りだろうか。だが海の上で時に何ヶ月も生活する船乗り達には、何の魅力もない香りだ。おそらく彼女達が纏っていたのは最初軽やかに、甘やかに海を表面を滑り、振り向かせるフローラル・ノート。そしてその後、惹き付けて誘い込んだのは静かに広く香るグリーン・ノート。故郷の香り、陸の匂い。それは海で生きる男達にとって、何より帰りたい場所ではなかったか。きっと海の魔物ではなく、陸の恋人の匂いに似ていたのだ。抗いがたい、異性の香りに。
それと同じように、全人類は”最初のひとり”以外はすべて、母の子どもである。子どもは母の香りには抗えないのではないか。大地母神、女禍、リリス。神々の母、そして人類の母である彼女達の香りは、何千世代と経ても遠い遠い記憶の中にしまい込まれている。何よりも記憶力に優れた人間の嗅覚が、確かにその香りと結びついていたとしたら。
「誰も抗うことのできない催眠があったとしたら?」
そんな仮定は神話を語るようなものだろうか。
「無理よ、そんなこと。無意識を操作することはできないわ」
治療屋はそう言って否定するけれど、果たして。
「そうだろうか?」
いつだって科学は神話や伝説の中の記憶を、現実の記録へと書き換えてきた。世界の99.98%の人々が知らないことだったからといって、それが現実に存在しないものであるとは言えまい。在るものは在るのだ。それを自分が、もしくは世界中の人間が知らなかったとしても。
「例えば誰の中にもある遺伝子の中で、その声や香りに反応してしまうものがあるとすれば? 誰の遺伝子にも刻まれた、逆らえない母の記憶があるとしたら?」
その仮定に、治療屋の目が眇められる。
「”ミトコンドリア・イヴ”?」
とん、と薄紫色のマニキュアを塗った人差し指が、紅茶の半分ほど残ったカップの縁を叩く。機械屋がそれを見て少しだけ身じろぎしたことが、機械油の匂いの動きで分かった。
「そう、現生人類の祖先は全て、母親を通じてのみ受け継がれるミトコンドリアDNAを辿れば、やがてたった一人の女性”ミトコンドリア・イヴ”に行き着く」
機械屋と合わせて四つの瞳に見つめられて、治療屋は緊張している。手に少し汗をかいているのだろう。ウィステリアの香りが混ざって僅かに香りを変わった。カップを叩いた指を引き寄せ、親指とこすり合わせているのは無意識の動作のようだ。
「単一起源説ね? 常識だわ」
そう、現代では就学児童ですら知っている常識の範囲だ。
「彼女が人類の母となりえたのは、彼女に二人以上の娘が生まれ、それぞれその娘が同じように子孫を残したからだ」
「そんなこと説明されなくても知っているわよ、あたしを誰だと思ってんの?」
そんな常識を医学を専門にしている治療屋に説くのは、馬鹿にされていると思われても仕方のない所業だった。けれど、もう少しこの当たり前の話を続けなくてはならない。
「そうだったな。……彼女は自分が人類の母として自分の遺伝子が残るとは知らなかった。というよりも、考えもしなかったというのが定説だ」
定説という言葉を使ったが、これこそ本来は”常識”と言うべきことだろう。定説とは語られてこそのものであるからして、まだ系統立った言語さえ操れない時代の人間が、遺伝子について考えることがあると、誰があえて考えて語るだろうか。そんなものは、前提にもなりはしない。
「当然じゃあない? 彼女と同時期に生きていた女性だっていたはずなのよ。それなのに、何故自分の遺伝子だけが残ると考えるかしら。他の女性の遺伝子は途中で途切れてしまったけれど、幸運にも彼女の遺伝子は途切れず広まったというだけで……」
明確に否定しながら、治療屋の緊張は高まっている。話の流れに、彼女は確かに不安を覚えていた。自分の知らない、未知の世界へと踏み出す恐怖を、感じているのだ。
「彼女が自分の遺伝子が残ると知っていたとしたら?」
「ちょっと、ファンタジーの話をしているわけじゃあないのよ?」
ベース・ノートの香りがまた少し変わった。それを感じることができるのは、”自分だから”こそだろう。治療屋自身も自分の心理をその体臭が雄弁に物語っていることを知らないのだ。そう、エデンと同じだ。世界中の人間が、自らの香りについてその何割もよく理解できていない。匂いは記憶を語り、今を語り、そして未来を語る。それを”読む”ことで、自分は能力を発揮できるのだ。
「それが真実かどうかは分からないよ。でも、エデン……イヴの楽園ではこう考えられた。ミトコンドリア・イヴ、つまり始まりのイヴは自分の遺伝子が残ることを知っていた。というよりも、自分の遺伝子のみが残ることを望んでいたのだ、とね」
もっと強く、治療屋の香りを感じたいと思ったのは、理性か感情か。支配されて諾々と従うような相手ではないと分かっているからこそ、巧みな心理戦が闘争心を煽るのだ。治療屋は自分の能力を知っているから、その裏をかこうと挑戦的な言葉をかけると余計に慎重になってしまう。けれど、その挑発を隠しながら煽るすべを、自分は知っているのだ。
「当時遺伝子なんて考えがあったわけないじゃあない。生きるだけで精一杯の時代だったはずよ! それが意識的に自分の遺伝子を残すことを考えていたなんて……妄想するにもほどがある!」
科学的な常識に隠して挑発すると、案の定治療屋は乗ってきた。自分の分野だからこそ余計だ。そう、自分だってエデンとまったく関わりなく生きてきて、突然その話を持ち出されたら同じように思うだろう。科学者達は科学ではなく、自分達の論理に固執する狂信者だったのだ。エデンはそこに住む者にとっては楽園であったソドムのようなもので、いずれは神の手によって滅ぼされる運命の廃退の都なのだと。
だが自分は知っている。科学者達の妄想の産物ではなく、エデンは確かに存在した。楽園は神の支配する場所ではなく、科学者達の支配する場所だった。そして科学者達は神ではないものを信じて崇めたのだ。
「超古代文明を信じていたということだろう」
機械屋が組んでいた脚を組み直しながら、少し馬鹿にしたような口調で告げるものだから、それを聞いた治療屋はますます懐疑的になってしまう。
「超古代文明……? ロストテクノロジー。つまり当時のミトコンドリア・イヴは私達と同程度の医学、遺伝的な知識を持っていた、と?」
「そうだ。そしてそれを証明しようとして生まれたのが終わりのイヴ」
終わりは始まりでもあるから、始まりのイヴであるとも言える。それを補足して、機械屋が続けた。
「ミトコンドリア・イヴと同じ遺伝子を持つ、彼女のクローンだ」
皮肉げに機械屋の口の端が歪む。彼女は人体工学の専門家として、遺伝子の分野にも興味を持って学んできた。遺伝子研究は最初の五十年間を堺にしてその発展の勢いが急速に衰え、今ではかつての三分の一程度の研究者しかいなくなっていると言われている。それについて何か作為的なものを感じ取るにしても、研究し尽くされ、活用のためには壁が厚く高すぎることは確かな事実であった。
人類に希望を抱いている人々にはまったく残念なことながら、その壁は決して倫理や道徳で積み上げられたものではなかった。神学的なものでもない。確かに生み出された数々のクローン、人間の臓器、血管や眼球までは、積み上げられた理論と実験で実用化され、数々の難病も克服された。人は生殖以外の方法で人を生み出す方法を確立した。はずだった。
「……有り得ないわ。ミトコンドリア・イヴの遺伝子の中で、最終的に彼女に行き着くことができるのはミトコンドリアDNAだけよ。でもミトコンドリアDNAからではクローンなんて作り出せない。他に彼女の遺伝子なんて見つかるわけないんだし……」
けれど五十年前の人々が思っていたほどには、クローン技術は人類を圧倒しなかった。何故なら、クローン技術によって生まれた人間、そして複製された”当人の臓器”、それらは何故か寿命が明らかに短く、機械がいずれ壊れるように、様々な不具合を生み果てていくのだった。遺伝子は万能ではない。ミトコンドリアDNAでイヴに辿り着く地図を描けても、彼女のクローンを作り出すことはどうあっても不可能なのだ。けれど、完璧に作られたはずのクローンに、克服できない欠陥があるのと同様に、絶対に作れないはずのものが作り出される。そのようなことが、この歴史の中で何度も起きている。
「その研究の全容はあたし達にも推測することしかできない。だが、施設内で確かに終わりのイヴと呼ばれる子供が存在していたという事実だけは掴んでいるんだよ」
それを求めて、自分と機械屋はあの現場に赴いた。立宮の連中と遭遇するという危険を侵しながら、目的のものとは別のものに出くわすことになったのだが。
「そして多分、あの爆発と火災の最中、破壊屋以外にも施設から抜け出した人間がいた」
機械屋と自分が駆けつける前に、もしかしたら、爆発と火災よりも前に抜け出した誰かがいたと。それをあの施設の破壊と、血まみれの破壊屋の様子から推察しているのだった。
「あたしが考えるに、破壊屋はあの施設から自分より先に逃げ出した人間のことを知っている」
もしくは、破壊屋自身が逃がした人間のことを知っているはずだと、機械屋も自分も思っている。そしてまた、破壊屋はそれを認めてはいないが、否定もしていないのだった。
「それが終わりのイヴだったと?」
治療屋の問いに、機械屋とほぼ同時に頷いて返す。あくまで真剣な二人の態度に、僅かに怯んだ様子で治療屋が手入れの行き届いた爪で耳たぶをつまむ。彼女はそうやって、自分の手首から香る嗅ぎ慣れたノートを精神安定剤の代わりにしているのだろう。
「でもそんなの、その研究者達が生み出した妄想だったのかもしれないんでしょ?」
終わりのイヴと呼ばれていた子供がいたとしても、その子供が本当にイヴの能力を有していたのかどうかは分からない。科学者達が生み出したと思っている、思いたかっただけなのかもしれない。
「けれどその妄想を、立宮も追っていると言ったら?」
揺さぶるつもりで明かした事実に、治療屋は臭いに敏感な動物のようにして鼻をひくつかせた。
「おまけに破壊屋も、あんたもってことね? 支配屋」
どうやらその通り名のように、簡単に話の流れを支配させてくれるつもりはないらしい。
「終わりのイヴが欲しいの? なんのために?」
だがいくら抵抗しても無駄だった。会話は情報量の多い方がより支配力を持つ。その点で、この会話に限って言えば治療屋は支配屋の手から逃れられない。
「違うよ、治療屋。僕は終わりのイヴを手に入れて、何かをしたいと思っているわけじゃない。僕はただ……兄のことが知りたいだけなんだ。エデンでイヴを育てた、そして炎の中で死んだ、僕の兄のことを……」
結局直接顔を合わせることは一度もなかった。しかし誰よりも自分に肉親を感じさせてくれた人だった。彼はエデンの理想には懐疑的で、だがある理由から逃げ出すことはできないでいた。逃げ出せないまま、炎の中で死んでいった。
「あんたにお兄さんがいたなんて……公表されていないわよね?」
「母親の違う兄だったからね。本人も十五になるまで存在を知らなかったんだよ」
そして存在を知った後も、自分から探し出して会おうとは思わなかった。エデンで勤めていることを知ったのは、立宮を監視していた最中のことで、本当に偶然だったのだ。もし兄がエデンに連れて行かれる前に、自分が彼を探していたら、イヴは楽園で死んでいただろうか。破壊屋も? そうだったかもしれないが、過去の出来事だけは、支配屋にも支配できない。考えても無駄だ。
「そりゃ……あんたの父親くらいになれば、そんな子どもが何人かいてもおかしくないんでしょうけど」
その視線に治療屋の気遣いを感じて、思わず頬が緩んだ。見当違いとはいえ、心配されるのは悪くない。彼女にだったらなおさらだ。
「実際まだ弟やら妹やらはいるみたいだけどね。……交流があったのは、その兄だけだ」
電波越しのたった数回の交流が。だから自分でも不思議だった。一体あの短いやり取りで、元々情に薄い自分が何故彼に肉親を感じて会いたいと願ったのか。そしてその願いが叶えられなかった今も、彼の影を追っているのか。
「そのお兄さんが、実際にエデンでイヴを育てていたっていうのね?」
「その可能性があるというだけだよ。あの施設で働いていたのは確実だから、破壊屋と接触していたっておかしくないんだ」
「訊いてみたの?」
そのごく単純な疑問には、機械屋が答えた。
「破壊屋に訊いても無駄さ。あいつは自分から口にするとき以外、施設のことについては喋ろうとしない」
機械屋に対してそうなら、支配屋に対しては自分から口にすることもないだろう。破壊屋は拾われたその時から今までの間に、機械屋には僅かばかり懐いたように見えるが、他の人間は視界にすら入っていない。そういう男だからこそ、本人を支配するなどとは支配屋も考えなかった。その代わり、周りを支配すればいいだけのことだ。
「でも、語らずとも繋がっていく道がある。機械屋が破壊屋を拾った時のことは聞いただろう?」
確認すると治療屋は慎重に頷く。
「破壊屋は探しものをしていた。あの施設を出てからずっと。そして……その探しものを見つけた」
機械屋が抑えた声音でそう言うと、治療屋は素直に目を丸くする。
「本人がそう言ったの?」
「ああ、そう言った」
本来あの壊すこと以外に無関心な男が、誰かを探して回ることが特異なのだ。そして探していたものを、見つけただけで壊さずにいるというのは本当に特別なことだ。だからこそ本物だと思える。
「そしてその探しものは、立宮や僕が探しているものと同じだ。おそらく、君の探しているものとも」
「待って! あたしは別に探しものなんて……」
ないとは言わせない。
「探している。”彼”を起こす方法を、ずっと探しているだろう?」
だからウィステリアのその香りを纏っている。いつも、いつまでも。苛立たしいほど長い間、ただ一途に。
「それは……でも、あいつはエデンなんて施設と関係なかった。終わりのイヴと接触する機会なんて一度も……」
そう、治療屋の恋人は単なるジャーナリストで、それも特別危険な場所に出向いたり、とかく噂のあるような人間に接触したりするようなこともなく、ごくごく常識的な仕事を行ってきたに過ぎない人物だ。エデンのことも知らない、99.8%の人間の中に入っていたことは確実だった。けれど、何もしていなければ巻き込まれないと、そういうわけにはいかないのがこの不条理な世界の真実の姿。自分達はそれを垣間みることしかできないし、たまたま垣間みてしまえば逃れることはできないのだ。
「科学者達が終わりのイヴを造り上げたとして、あんたならどうする? 治療屋。試してみたいと思わないかい? その能力を。本当に目指すものが造れたのかどうかを、実験してみたいと思わないか? そう……例えばひとつの村を使って」
同じ科学者なら分かるだろう、と機械屋が言う。治療屋は最初何を言われたのか分からないというような顔をしたが、体が先に、その不穏な空気を嗅ぎ取って指先を震わせた。それからゆっくり肘掛けを掴み、震えの広がる全身をどうにか抑えようとして顔面を蒼白にした。
「う、そでしょ? だから、だから”ただ眠っているだけ”だというの?」
分からないふりをするには、治療屋は賢すぎた。そしてヒステリーを起こすには、彼女の精神は強靭すぎたのだ。
「確証はないよ。何もかも、今の段階で確かにと言えるものはない。全部仮定の話だ。でも、いずれその仮定が積み重なり、線を結んで確かなものになる。だからこそ、君にも知っておいて欲しかった」
こくりと、治療屋の喉が上下して、唾を呑み下したのだろうと知れた。まだ青い顔をしたまま、そして頭の中を眠る恋人の姿で一杯にしたまま、それでもありったけの自制心を振り絞って、治療屋は唇を引き結んだ。
「……焦ってその線を引き千切るような真似をするなと言いたいのね」
それでこそウィステリアの香りを纏うに相応しい、自分を陶酔させるに十分な気高さだった。
「君は十分待った。これ以上待てというのは酷かもしれないが、相手にしているのがあの立宮や破壊屋だとすれば、無茶なことはして欲しくない。走査屋が少し踏み込みすぎたように、ここまで来て彼を失いたくはないだろう?」
自分としては、失われたとしても何の問題もない人間ではあるが、そんな形で失われたら彼女は余計彼を忘れられないだろう。そういう愚かしい事態は、なんとしても避けたいのが本音だ。
「……祓い屋の件は、あのお坊ちゃんが招いたことなのね」
「彼はまだ子どもだ。だが、同じ失敗は繰り返さないだろう。祓い屋の様子はどうだい?」
「今はけろっとしているわよ。でも一部の記憶が曖昧で、尋ねると毎回少しずつ違うことを言うわ。どれも店を訪れるところまでは同じなんだけど……」
その店の名前は既に押さえている。グーテンベルク聖書の件は、動きがあまりに大きすぎたから捕捉するのは簡単だったのだ。
「流華堂、だね」
「ええ、そう」
そこには若い店主が一人で暮らしている。喫茶店、そして骨董店、そして”修理屋”。まるで人形のような完璧に整った容貌。まったく分からない出自。荒事も簡単に処理をつけてしまえる腕を持ち、その上走査屋顔負けの情報技術を苦もなく操る。果たして祓い屋は、人には見えないものを見ることができる少女は、その店主の後ろに何を見たのだろう。何か、見てはいけないものを見たとしか思えない。そうでなければ。
「なに? まだ隠していることがあるわね。もうこの際全部言ってよ。小出しにされるのは気持ち悪いし、見くびらないでって思うわよ」
そうでなければ、イヴの力で記憶を書き換えられたりはしなかっただろう。彼女は決して真実を思い出すことができない。何かがおかしいと感じ取ることができたとしても、書き換わる前の記憶が戻ることはない。”母”の命令がない限り、どんなに足掻いても。
「……見くびってはいないよ。君は強い女性だし、彼を取り戻すためならなんだってするだろう。でも、今日はこれ以上のことを言うのは止めておこう」
走査屋のせいで、今後修理屋に近づくのはますます危うくなってしまった。破壊屋の目を盗んで、ということが出来ればいいが、何か策を練らなくてはいけないだろう。
「支配屋!」
「君も僕も、まだ我慢しなければいけない時だ。そう思うだろう? 機械屋」
同意を求めると、機械屋は目を眇めた。意見としては同意するしかないが、気分としては否定してやりたいという気持ちがその目に透けて見える。
「少なくとも、破壊屋よりは長く我慢する必要があるだろうさ」
その”少なくとも”という言い方が、自分の何でも支配しなければ気がすまない性質を咎めているようであったので、支配屋は曖昧に微笑んだ。その笑みの真意をはかりかねた様子ではあるものの、治療屋は支配屋の言葉を、というよりは機械屋の言葉を信じて態度を決めたようだった。
「…………分かったわ。それで? あたしはこれからどうすればいいの?」
自分の側に。そう言えれば他のものを支配することなど、すべて放り出してかまわないくらいなのだが、どうして世界はこうもままならないものなのだろうか。
「しばらく僕は子ども達をかまっている暇がない。走査屋は勿論だが、祓い屋も聡い子だからね。いずれ自分の状況に疑問を感じるだろう。でも、下手に動いては危険だ」
何を任せられるのかが分かったのだろう、治療屋は嫌そうに眉を顰めた。
「お守りは治療の範疇外よ」
そうかもしれない。
「でも君は、彼らが好きだろう?」
無邪気を装った言葉に、治療屋は反論せずぐっと黙り込む。これが機械屋であれば、勘違い甚だしいと鼻で笑っただろうが、彼女にはそれができない。
「僕はそういう君が好きだよ。だから、しばらく子ども達を抑えておいてほしい」
照れたように赤く染まる頬は、しかし本当は図星を指されたことへの苛立と怒りだろう。
「……分かったわよ。祓い屋は妹みたいなもんだしね。あたしだって、あの子達を破壊屋とは接触させたくないわ」
「ありがとう、治療屋。分かってくれて嬉しいよ。すぐにまた、今日の続きを話せるようにしたいと思っている。だから、もう少し待って欲しい」
渋々といった様子だったが、治療屋は確かに頷いた。それに支配屋が満足そうに頷き返すと、途端に治療屋の機嫌を損ねたらしい。彼女は紅茶の残っているカップをテーブルの中央へ押しやり、立ち上がって部屋を出て行こうとする。引き止めたいのはやまやまだが、そうすれば徹底的に相手を怒らせることになるだろうから黙って見送ることにした。
治療屋は白衣に見え隠れする長い脚で、つかつかと部屋の扉まで歩み寄る。そしてドアの取っ手に手をかけると、くるりと振り返って目を細め、支配屋をねめつけた。
「支配屋、あんたは確かに酷な男よ。破壊屋より質が悪いかも」
光栄だ、とは口にしなかった。ただ口の端を引き上げて、微笑んだだけだ。それを見た治療屋は鼻を鳴らして今度こそ部屋を出て行った。
「質が悪いかも、か。あたしならはっきり断定するどころだね」
治療屋の後ろ姿がドアの向こうに消えたところで、彼女の残り香を味わっていた支配屋の目を覚まさせるようにして機械屋が皮肉った。支配屋は肩を竦めて、すっかり冷めてしまった紅茶を口に含む。渋みの強い紅茶は好きではない。カップを置いて、先程治療屋がそうしたようにソーサーごとテーブルの中央に押しやって返した。
「君達ほど支配しがたい人間がいるかな? 強い女性というのは本当に厄介だ」
「あれだけ堂々と好意を口にして、あれだけ綺麗に無視されたのは初めてだろう? ざまはないね、支配屋」
一応機械屋には口説いているように聞こえたというだけで十分だ。あまりに綺麗に無視されたものだから、自分が思っていたのとは違う言葉を発してしまったのかと一瞬訝ったくらいだったのだ。
「少しは同情してくれてもいいと思うけどな、機械屋」
「あんたの恋は不毛だよ。治療屋がどんだけあの恋人を愛しているか、知っているだろうに」
治療屋がいる場では五月蝿く説教されるから、と我慢していたのだろう煙草を機械屋が取り出して銜えるので、ライターを取り出して火を点けてやる。
「そう、紅茶党の彼女がトラジャの香りをさせているのを知るにつけ、自分の恋の不毛さに涙が出るよ」
金属製のライターの蓋をいじりながら微笑むと、機械屋が眉を顰めて煙を吐き出した。相変わらず、美味くもなさそうに煙草を飲む女性だった。
「どいつもこいつも……まったく男ってのは馬鹿ばかりだよ」
だがどうやら、その不味そうな顔を作る一因となったのは自分の言動らしい。自分の母親と言ってもいいくらいの年齢の機械屋にそうぼやかれれば、正論なだけ余計に微笑まずにはいられない。
「君達が賢すぎるんだよ。イヴの娘達がね」
なんせすべての男は、女の子どもなのだから。そう続けると、機械屋は残りの煙草を懐にしまって口の端を片方だけ持ち上げた。
「……だが、最後に支配するのはイヴではなく、自分だと言いたいんだろう? 支配屋」
まったく、嫌になるくらいイヴの娘達は賢すぎる。その賢さの上をいくために、自分を含めた男達は悪あがきをするものなのだ。支配したり、破壊したりして。
「ずっと男達はそうやって矜持を保ってきたじゃないか。確かに人を生んだのはイヴかもしれないが、支配するため、最初に造られたのはアダムの方だとね」
だからこそ兄も、”終わりのイヴ”を育てながら、”アダム”を作らずにはいられなかったのだと思う。愚かだというのなら、きっと。
「始まりからずっと、男は愚かな生き物であったんだよ」
*この小説における遺伝子うんぬんの記述はかな〜り適当です.何かの参考にしたり穴を探したりはしないようにしてください.